雲井龍雄の生涯と日本の動き

西暦 和暦 雲井龍雄の生涯 日本の動き
1844年〜1852年 天保15年〜嘉永5年 3月25日米沢藩家中に父 中島徳衛門、母 八百(屋代家より嫁ぐ)の次男として生まれる。8歳で上杉清吹咄に、9歳で山田塾舎に、12歳で興譲館に学び、14歳からは興譲館において優秀につき藩士から優査を受ける。 日本周辺において外国船舶の出没が頻繁となる。水戸藩を中心に尊王攘夷思想が尊奉の士に広がる。この後、幕府は公武合体に傾斜して開国に進み、隣国による倒幕・維新に至る。
1853年 嘉永6年 6月 海軍大将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍により艦隊の艦船4隻が浦賀に来航し国書受取を要求。この事件を起点として幕末の動乱の幕が切って落とされた。
1854年〜1855年 安政元年〜安政2年 山田塾舎に師事する。 1月ペリーが再び江戸湾に来航、3月18日米和親条約を締結。
1858年〜1859年 安政5年〜安政6年 興譲館での学業秀逸につき表彰される。 井伊直弼が大老に就任し安政の大獄始まる。日米修好通商条約締結。
1860年 万延元年 勝海舟ら日米修好通商条約批准書交換のため咸臨丸でアメリカへ渡航。桜田門外の変。
1861年 文久元年 18歳で叔父 小島才助の養子となり丸山庄衛門の次女よしを娶る。
1862年 文久2年 20歳で小島才助が死去し家督を継ぐ。21歳の時、高畠の警護の任につく。 坂下門外の変。会津藩主松平容保が京都守護職となる。島津和宮内親王降嫁。
1864年 元治元年 禁門の変 第一次長州征伐。
1865年 慶応元年 23歳 米沢藩江戸藩邸に出仕し安井息軒の三計塾に入門する。同塾には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、入見勝太郎らがいたが非常に優秀で執事長(学生長)となる。 高杉晋作、長州藩の実権を掌握する。
1866年 慶応2年 藩命にて米沢に帰国したが、米沢藩は家老千坂高雅を京都に派遣し、薩雄はその先駆として京都で探索活動に従事する。 徳川慶喜が第15代将軍に就任。孝明天皇崩御し明治天皇が践祚(せんそ)。
1867年 慶応3年 10月大政奉還 12月王政復古の大号令が発せられ、龍雄は新政府の貢士に挙げられた。 10月大政奉還、12月王政復古の大号令が発せられる。
1868年 慶応4年/明治元年 鳥羽・伏見の戦いが始まり、新政府軍の東征が江戸、東北に及び、龍雄は京都を明治元年11で、奥羽越列藩同盟に転じを促した。越後加茂にて有名な『討薩之檄』を書き同盟各藩に配る。その後、会津国境で官軍府勢力が破れ、新政府は権力を掌握する。 鳥羽・伏見の戦い、幕府軍は敗走し四軍東征、東北へ兵を進める。4月 江戸城無血開城。奥羽越列藩同盟結成以って会津藩への攻撃許すを願う。彰義隊は上野で新政府軍と戦い敗退。9月会津藩降伏。
1869年 明治2年 龍雄は米沢で禁固の身となるも謹慎を解かれると興譲館の助教となる。助教を2ヶ月で辞任し上京して新政府により集議院議長に任じられるも批判的言動が元でひと月足らずで議員を追われ東京に留まる。 5月 函館五稜郭陥落、土方歳三が戦死し榎本武揚ら降伏。
1870年 明治3年 龍雄の元には旧幕臣や戊辰戦争で敗れた者たちが大勢集まった。その為東京芝の上行寺や円真寺の門前に『帰順局』を開き、敗藩者・旧幕臣に帰順の道を与えるべく嘆願書を新政府に提出する。これが政府転覆の陰謀とみなされ、米沢に幽閉された後、再び東京に護送される。12月28日に小伝馬町牢獄で斬首刑に処され、首は小塚原刑場で鼻首(晒し首)された。享年27歳。 (明治4年以降の日本の動き) 明治4年 岩倉使節団海外視察。明治5年 領郷屋敷廃置県となる。明治6年 西郷・江藤 板垣 後藤ら政府要職を辞任。大久保利通は内務卿となり実権を掌握。明治7年 佐賀の乱・江藤新平処刑。明治9年 熊本神風連の乱、秋月の乱。明治10年 西南戦争勃発。
その後 胴体は大学校(東京大学校の前身)で解剖に使用されたが、首は姉かに回向院に埋葬され、後に谷中霊園に移された。明治22年国赦により罪が解かれ、昭和5年の名誉回復の後米沢市の常安寺に祀られる。この時、米沢では雲井生会が設立され、常安寺本堂前に新たに墓が建立された。その93年後の令和5年に雲井龍雄顕彰会有志により常安寺境内に雲井龍雄像が建立された。
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