雲井龍雄とは
雲井龍雄とは
雲井 龍雄(くもい たつお、天保15年3月25日(1844年5月12日) – 明治3年12月28日(1871年2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての志士、集議院議員。
本名は小島守善(もりよし)、字は居貞、号は枕月または瑚海侠徒といわれています。
壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されています。
雲井龍雄という名は明治元年(1868年)頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれています。
天保15年3月25日(1844年5月12日)、米沢藩士の父・中島惣右衛門平(勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等6石3人扶持)と屋代家次女・八百の2男2女の次男として米沢袋町に生まれ、幼名は豹吉、猪吉、さらに権六、熊蔵などと名前を変えました。
幼い頃は負けず嫌いで腕白な性格でした。
8歳で近所の上泉清次郎の家塾に就学し、その優れた才能と胆力を認めた清次郎から孟嘗君と呼ばれ、9歳にて師・清次郎が病死すると山田蠖堂の私塾に移り、12歳の頃には郷学の中心的存在であった曾根俊臣にも師事します。
14歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学し、興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場でしたが、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けました。
好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達しました。
友于堂に入学した龍雄はある日、学友の佐藤志郎の訪問を受けました。
佐藤が勉強部屋に入ると、一尺程の棒があり、不思議に思って尋ねると龍雄は「これは勉強棒というものだ」と答え、さらにその訳を佐藤が尋ねると「僕の頭の瘤を見たまえ。夜勉強していて眠くなると、これで頭を殴るのだ。始めは水で顔を洗ったが駄目なので、薄荷を目蓋に付けてみた。すると目がヒリヒリして仕方がない。唐椒を舐めてみたら辛くて本を読むどころではなかった。この棒で殴るのが一番よい。この間『春秋左氏伝』を読んだときもこれで殴りながら読んだのだよ」と言ったといいます。
18歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶りました。
20歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、21歳で高畠の警衛の任に就きました。
慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門します。
息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせました。
こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷干城以来の名執事長」といわしめたといいます(若山甲蔵『安井息軒先生』)。
龍雄は息軒の命を受けて毛布を購入するため横浜の商館に赴きましたが、その資金で「万国公法」を買ってしまい、しかも却って息軒からその正しさを激賞されたという逸話があります。
同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがおり、またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会いました。
慶応2年(1866年)、藩命で帰国。
藩はこの時に世子・上杉茂憲が兵800を率いて京都の治安に当っていましたが、龍雄は京都駐兵を解き、代わって具眼の人物を上洛させ天下の形勢を探報させることが上策であると献言をするも、保守的藩風には受け入れられませんでした。
しかし、形勢が急に動き、江戸幕府の長州再征の頓挫や14代将軍・徳川家茂が急死して徳川慶喜が将軍職に就ぐなど、江戸幕府の実力の失墜は明白でありました。
そのため、ようやく米沢藩は幕府追随の不得策を知り、茂憲を召還し同時に国老・千坂高雅を京都に派遣、龍雄はその先駆に指名されました。
千坂ら一行は清水の成就院を本陣としましたが龍雄は別行動をとり一木緑、遠山翠等の変名を用いて探索活動に当りました。
ところが同3年(1867年)10月に幕府が大政奉還し、同年12月に明治新政府から王政復古の大号令が発せられると、龍雄は新政府の貢士(全国各藩から推挙された議政官)に挙げられました。
この貢士就任は門閥の士を差し置いての抜擢であり、その才幹が藩内外を問わず広く知られていたことを示しています。
なおこの年に実父・惣右衛門が病死、慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶと、龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。
しかし旧幕府勢力は敗れ去ると、米沢にて禁固の身となります。
明治2年(1869年)に謹慎を解かれると興譲館助教となるも2ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議院議員に任じました。
しかし、薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか、前述の幕末期での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭いわずかひと月足らずで議員を追われてしまいました。
一方、戊辰戦争で没落したり削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになり、龍雄は明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に「脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよ」と4回にわたり嘆願書を政府に提出しました。
これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものでしたが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっておりました。
これが政府転覆の陰謀とみなされ翌年4月謹慎を命ぜられます。
米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され、同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下り、龍雄は判決2日後に小伝馬町牢獄で斬首刑に処され小塚原刑場で梟首されました。
享年27。胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用されたといいます。
なお、龍雄を葬った政府は威信を保つためその真蹟をのち覆滅し、龍雄の郷里・米沢でもその名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていました。
また、同志の原直鉄、大忍坊ら13名も斬首、江秋水ら22人が獄死しました。
墓は山形県米沢市の常安寺にあり、戒名は義雄院傑心常英居士。
南千住にある回向院には「雲井龍雄遺墳」の墓石があります。
雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、自由民権運動の志士たちに好まれました。
若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ、「去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。」
と記しています。(明治二十四年、山本良吉宛書簡)
幸徳秋水も、死刑執行を目前に控えた獄中で綴った未完の「死刑の前に」という一文の中で、「木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平も赤井景韶も富松正安も、死刑となった。」
と記し、自らの運命を受けいれるために思い浮かべる先人の一人として、雲井の名を挙げています。
詩人
彼は頭脳明晰で、文章は人々を魅了しました。戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟の諸藩に送られ、士気を高めた「倒薩の檄」は代表的なものです。
また、「死して死を畏(おそ)れず、生きて生を偸(ぬす)まず」で始まる辞世詩のように、数々の優れた漢詩は明治・大正期の青年たちに広く愛唱されただけでなく、現代でも詩吟愛好家に吟じられています。
討薩の檄
初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏(そし)つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
皇朝、陵夷極まると雖も、其の制度典章、斐然として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を劫制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。
討薩の檄要約
薩摩は、最初攘夷を主張して、幕府の開国を貶めて批判していたのに、自分が権力を握ると開国を主張し始めた。なんの一貫性もなく、当初攘夷を主張していたのは自分の野望を遂げるためであった。この罪を問わなくてはならない。
日本には、海外からの危機はあるといっても、日本固有の制度や歴史がある。しかるに、薩摩が専制権力を握ってから、あまりにも急激で無理な改革を推し進め、長い歴史の中で積み重ねられてきた制度や慣習を破壊している。その罪をどうして問わずにいられよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸国の得たいの知れない人々の中で、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。
諸般の、親子兄弟同士のいろんな大名たちを戦争に駆り立てさせている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、これこそ最も残酷な道徳に反することだ。その罪を問わなくてはならない。
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。
小説
藤沢周平の「雲奔る」の主人公が雲井龍雄です。
遅れて登場した志士、激動の時代に埋もれた天才詩人の悲劇が、作者の親しみを込めたまなざしによって描かれています。
ドラマ
昭和55年(1980)のNHK大河ドラマ「獅子の時代」の脚本を書いた山田太一は、風間杜夫演ずる雲井龍雄に「権力を正面から批判する勢力がなければ、社会の健全な発展は図れない」という趣旨のセリフを述べさせています。
その他
死刑執行人 山田浅右衛門談
手前が17歳の時です。
明治三年庚午歳の師走28日、東京の市中は節季で、薬研堀の年の市というのに。
今日は米沢の藩士雲井龍雄(27歳)を斬れというお達しで小伝馬町の牢へ参りました。
音に響いた人物ではありますし、斬り損なっては大変と、おのずから普通の囚徒を斬るのとは自分の覚悟も違っておりました。
申すまでもありませんが、雲井は安井息軒の門下で、一夜に「佐氏伝」を読みおえたという傑物、時利あらずで囚われの身となって、戊辰の八月に米沢から江戸へ押送されました。
お取調べも厳重で、同士の面々を自白させようとしましたが、いくら拷問に逢っても一向屈服しない。
その当時のことですから、芝居で見るような残酷なことも少々ぐらいはしたでしょうが、連判帳は焼却してあるから、一死国に殉ずといって平気なものでありました。
雲井はいたって小柄な男で、その大胆さはどこに宿っているのだろうと思われるくらいでした。
しかし刃の露と消える刹那も神色自若として少しも動きません。
やっぱり一流の人物は違うものだと心中我ながら敬服しました。
出典:篠田鑛造 「明治百話」