堀粂之助墓前祭

堀粂之助墓前祭
堀粂之助墓前祭は、24年前より龍泉寺にて米沢市の有志により小規模で開催されてきましたが、有志は雲井龍雄顕彰会の会員でもあり、2022年より顕彰会が引き継ぎ、墓前祭を行っていくこととなりました。
顕彰会は雲井龍雄の銅像を米沢市常安寺に建立することを第一の目的で活動して参り、多くの方々の応援をいただき、今年2023年5月に建立除幕式を行うことができました。
しかし、顕彰会の目的は銅像建立だけではなく、幕末維新とは何だったのか、多くの人が斃れたことに思いを馳せ、もって米沢と会津の友情を育むことにあります。
「歴史は未来のためにある」を目指して、これからもいろんな企画を開催して参りたいと思います。
活動報告

第21回堀粂之助墓前祭記念講演を開催しました。

第21回堀粂之助墓前祭のご案内

堀粂之助墓前祭&シンポジウムのご案内

堀粂之助墓前祭を行いました。

堀 粂之助 墓前祭のご案内
堀粂之助とは
堀粂之助(くめのすけ)は、天保9年(1838)に会津藩⼠・堀清左衛⾨(ほりせいざえもん)の⻑男として⽣まれました。
⽂武に優れ、会津藩校 南学館(なんがくかん)[⾝分の低い藩⼠の学校で上級藩⼠の⼦弟は⽇新館(にっしんかん)に学んだ]の助教となり、京都では精選組(せいせんぐみ)隊⼠となります。
戊⾠(ぼしん)戦争が始まると、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)と共に会津へ戻り新政府軍と戦いますが、明治元年(1868)8⽉23⽇に会津若松城は、新政府軍に包囲され、厳しい籠城(ろうじょう)戦が始まりました。
この危機に、堀粂之助と吉村寅之進(よしむらとらのしん)の⼆⼈は、容保から⽶沢藩へ援軍依頼の命を受け、敵の包囲網をくぐりぬけて⽶沢に向かいました。
使命は果たせず…
⼆⼈の⽶沢到着は9⽉3⽇、直ちに⽶沢藩⾸脳に援軍要請しました。
しかし時すでに遅く、⽶沢藩は新政府軍への降伏を決意した直後でした。
⽶沢藩は奥⽻越列藩同盟の主軸として、主に越後で新政府軍と激戦を交えました。
⼀時は⻑岡城奪回に成功しましたが、7⽉29⽇には新潟港が陥落し総督の⾊部⻑⾨ (いろべながと)も戦死、8⽉中旬には敵兵が国境に迫る勢いでした。
そうした中、上杉家と親戚の⾼知藩⼭内(やまのうち)家や、広島藩浅野家等から降伏斡旋が届き、ついに降伏を決めたのです。
援軍が無理と悟った粂之助は、⽶沢藩が駄⽬なら仙台藩に依頼すべきとする吉村の意⾒を容れず、使命を果たせなかったとして、9⽉5⽇(新暦では10⽉20⽇)に、宿舎で割腹しました。
享年31でした。
遺体は、その死を悼んだ⽶沢の⼈たちによって⿓泉寺に葬られました。
辞世の歌
神かけて誓ひしことのかなはねば ふたたび家路思はざりけり
活動記録
第21回墓前祭 記念講演会動画